その後の グリンデルワルトは・・・その1
賛同意見を、1996年06月01日から集め始めて、今日現在(2002年11月27日)でその数は262名となりました。 10000名には、まだまだの数ですが、しかし、262名の方々から「賛同する」とのご意見を頂き、感謝するとともに、 まだまだこの活動を継続しなければならない辛さを感じています。 なぜなら、この土産店(時計店)は、あいも変わらず「グリンデルワルト駅での客引き行為」を続けているからです。 |
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弊社が、この「客引き反対」活動を行なっている歴史(?)を、少しお話しします。 表紙にも書いているように、グリンデルワルト村と日本人との付き合いは、大正時代の日本人アルピニストとの交流 からスタートします。 その後、日本人の海外渡航が自由化され、徐々に多くの日本人が世界中へと海外旅行に出発します。スイスも、 ヨーロッパの中心地に位置し、ジュネーヴやチューリッヒなどの都市の観光から日本人旅行が始まりました。 日本人の旅行形態が、観光中心の駆け足旅行からハイキング・ブームによって、少しづつ変化してきます。 もともと、観光地としても有名なユングフラウ観光にプラスして、多くの旅行会社もハイキングも取り入れるようになり、 それまでの「ハイキング=特別なもの」が「ハイキング=観光のついで」にと、主催する旅行会社も、そして参加する 日本人客の意識も変わってきました。 |
そこで、今まで宿泊していたチューリッヒ、ルッツェルンやジュネーヴなどの都会よりも、山に一歩でも二歩でも近づく 場所。つまり、グリンデルワルト、ツェルマットやシャモニー等の山岳観光地に宿泊するツアーが多くなってきました。 もちろん、これらの観光地に日本人が増えた理由はそれだけでなく、各地の観光局、鉄道会社などの公共機関、ホテ ル、更に現地旅行会社などの長年の宣伝活動があってこそ、日本の旅行会社が企画し、さまざまなメディアで紹介さ れ、その結果、訪れる日本人客も多くなってきたのであって、1年や2年で急に多くなったわけではありません。 |
日本人専用のお土産屋さんも、それまではチューリッヒに1軒、ジュネーヴに2軒、そしてインターラーケンに1軒ほど しかなく、その存在もあまり目立ったものではありませんでした。 |
その後、日本人の増加とともに、日本人専用のお土産屋にも大きな変化が現れて来ました。 ブリエンツは、チューリッヒやルッツェルンからインターラーケンやグリンデルワルトへ行く道中にある町です。 そこに出来た某お土産屋(時計店/以下C店と言います)が大型となり、急に各地に姉妹店を増やすようになりました。 1つはインターラーケンに、そして、グリンデルワルトには3店も出しました。 更に、このC店では、毎朝、日本人団体客が登山電車に乗車するインターラーケン、ラウターブルンネン、そして、グリ ンデルワルトの各駅と、団体バスが停車する場所に、店員を送り、添乗員、ガイドやバスの運転手たちに、チップや コミッションを支払い、客引きを行ないながら、さまざまな情報を得ていました。 これらの行為にあわてたのが、もともとインターラーケンにあった別の日本人専用のお土産屋(以下S店と言います) でした。 (C店のスイス人オーナーは、S店のスイス人オーナーから、土産物屋の手ほどきを受け、それから独立したようです) |
C店に負けまいと、S店からも店員が各駅に毎朝集まっては、到着する日本人団体の添乗員やガイドに声を掛けて いました。 その頃、観光ガイドなどで日本人団体を引き連れていた、私(安東一郎)が、これらの光景を見て、余りにも醜い有様 なので、各店員に注意したことがあります。 しかし、彼ら(日本人だったり、スイス人だったり)は、「何がいけないんだ!?」という顔で私を見ました。 それらの行為が毎日、毎日繰り返され、弊社のスタッフ達からも「客引きは今朝も居ましたよ」と聞くにつれ、「今、何 とかしなければ、もっとひどいことになってしまう!」と危惧していました。 客引きは、駅構内にとどまらず、グリンデルワルトのメインストリート上でも行なわれていました。 例えば、ホテル・サンスター近くにあるC店の姉妹店前を通りかかると、店員が店から飛び出し、道路を横切り、反対 側を歩いている私に「お土産はいかがですか?」と聞いていました。 (当時は、まだ客引き反対運動を起こしていなかったし、店員も私をまだ知らない新人だったのでしょう。笑) |
ユングフラウ鉄道の副社長である、MR.ケスラー氏に確認しました。 「駅構内での客引き行為はOKなのか?」と。 ケスラー氏からの回答は、もちろん「NO」でした。 「駅構内は、ユングフラウ鉄道の管理下にあり、商店の客引き行為などは禁止されている」と。 そこで、ある朝、グリンデルワルト駅の構内で客引きに来ていたC店の日本人店員(女性)に、 「駅での客引き行為は禁止ですよ」と言いました。 店員は、その場を去りましたが、しばらくすると、そのC店のオーナーが、険しい顔で弊社を訪ねて来ました。 (その頃、弊社の事務所は、ベルン州立銀行内ではなく、別の民家にありました) そのC店のオーナー曰く 「客引き行為などしていない。君は間違っている !」と言い。あげくには、 「日本語案内所などいくらでも作れるんだぞ!」と、ドスの効いた声で言い、帰って行きました。 |
私は、「これじゃ、スイス人のC店の言いなりになってしまう」と思いました。 (私たちは、グリンデルワルトに長年住んで居ても、やはり日本人=外国人ですから) そこで、このような現状と「グリンデルワルトは低俗な観光地になってしまう。何とかして欲しい」という手紙を書き、 村役場、警察署、商工業組合、ホテル協会、ベルンにある外国人労働局などに発送しました。 |
この手紙はC店やS店には発送していないにもかかわらず、両方の店主ともに、この手紙のコピーを持っていたのは、 さすがに驚きましたし、手があちこちに回っているんだなあ〜と、感心したものです。 |
この手紙が功を奏したのか、その後、C店やS店からの店員の姿をインターラーケン駅、グルント駅、ラウターブルン ネン駅などで見ることが少なくなりました。が、グリンデルワルト駅では、相変わらずC店の店員が居ました。 朝の時間では、駅に集まる団体客、バスで到着する団体客の添乗員、または現地ガイドに声を掛けては、連れている 団体客が、いつ、どこへ降りてくるか?を聞きます。 また、日本人団体がユングフラウヨッホから下山してくる午後の電車が到着する時間には、必ず夏のシーズン中では 3〜4人が駅に来ては、日本人団体客を物色しています。(オフ・シーズンでも必ず1人は来ています) 日本人団体の姿を見ると、まず添乗員か、ガイドを探します。 店員たちは、個人には声を掛けません。あくまでも声を掛ける対象は、添乗員か、ガイドやツアーリーダーなどです。 日本からの添乗員も、現地ガイドも、客を連れて行こうと考えている場合は、これらの客引きと連れ立ってC店へと 向かいますが、お土産屋を嫌い(或いは、率先して連れて行かない)添乗員は、客引きの誘いを断っています。 |
グリンデルワルト村役場と警察は、弊社からの手紙をもらってから駅や道路上での観察を行なっていましたが、ある日 その結果を持って、全員での話し合いが村役場の会議室で行なわれました。 役場からは、村長、副村長、書記長。村の警察署長。商工業組合長。C店のオーナーとその弁護士。そして、弊社は 参考人として出席しました。 S店や、それに類するお店では、その後客引き行為を行なっていなかったので、この場には呼ばれませんでした。 ここで、村長からは、「注意書」がC店のオーナーに手渡されました。(別紙参照) これで、ハッキリと「駅構内、公道上での客引き行為は犯罪である」ことが文書にて明確にされたのです。 この文書は、コピーとして、役場、警察署、商工業組合、ホテル協会、ベルンにある外国人労働局などにも発送されて います。(弊社も持っています) |
しかし、今現在を持ってもC店からの客引き店員は、毎時間駅へと来ては、日本人団体に声を掛けています。 店員曰く「お客様=団体客からの依頼なんです。駅で待ってろ、って」と言います。 でも、それらしき団体客は電車には乗っていないことも多く、店員は手ぶらで店に戻ることも多いです。また、団体客が 居て、店員からの声掛けにも動じず、店には寄らずに、そのまま団体バス乗り場へと向かっています。 (きっと、時間がないのでしょう。。。。笑) |
弊社では、今後も、このC店が店員を駅に客引きに送る間はず〜と、この客引き反対運動を、続けます。 そして、1日も早くC店のオーナーが、客引きをしなくなるように、日本人店員を駅に送らないように。。。。頑張ります。 |
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重ねて、言います。 私達は、このスイス人経営のお土産屋(時計店)による「グリンデルワルト駅や村内での 一切の客引き行為」に反対します。 |
グリンデルワルト日本語観光案内所
所長 : 安東 一郎
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地元の新聞に掲載された投書 | |
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